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十字軍とは何?遠征の結果は?900年前の剣が見つかる

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こんにちは。

この数日で急に寒くなり、秋をいっきに通り越した感じがしますね。

前日まで半袖で普通に過ごしていたのが、急に長袖でないと寒くなりました。

体調管理に気をつけたいですね。

さて、今回は海外の話で、中世の十字軍が使っていた剣がイスラエル沿岸部で見つかったとのことです。

刃渡りの長さは約1メートル、約900年前のもので、アマチュアダイバーのシュロミ・カツィン氏が偶然発見しました。

貝殻に覆われていて今は剣の模様はわかりませんが、洗浄すれば状態のよい剣がでてくるのではないかと期待されています。

歴史的大発見のニュースを前に十字軍って何だったかな?遠征とかやたらと何回かにわたってしてたけど結果はどうだったかな?と気になったので、調べてみました。

というわけで、今回は十字軍とは何か?遠征の結果について調べてみました。

歴史の資料は見れば見るほど深みにはまっていくので、そこまでいく手前のところで十字軍の全体像がわかるように調べてみました。

 

十字軍とは何?

十字軍とは一言で言えば、エルサレム奪回のために集まった軍隊の総称です。

派遣は11世紀末から13世紀までの間に何回も行われていて公式のものは7回です。

よくキリスト教とイスラム教の戦争だといわれますが、事の始まりは領土の奪い合いでした。

7世紀頃から11世紀後半に至るまで、エルサレムはイスラム教国が治めていたのですが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教徒たちは概ね平和的に共存していました。

11世紀後半にセルジューク朝トルコがイスラム世界での覇権争いに勝利しエルサレムを奪った後、さらに領土拡大に踏み出しビザンツ帝国の領土を奪いにきたのです。

これに危機感を抱いたビザンツの皇帝アレクシオス1世が1095年ローマ教皇ウルバヌス2世に救いを求めました。

救いを求められた教皇ウルバヌス2世がフランスのクレルモン会議で「聖地エルサレムを取り戻そう」と大号令をかけ、これに西ヨーロッパの民衆や諸侯が呼応する形で十字軍が結成されました。

 

十字軍の名前の由来

十字軍(英語:crusade)は文字通り、従軍した兵士が十字架を胸につけて参加したのでこの様に呼ばれるようになりました。

でも実際は十字軍と言う言葉が知れ渡ったのは第1回の十字軍から100年後のことで初回の結成当時から100年間は旅や巡礼等と呼ばれていました。

エルサレムにはキリストが葬られたとされる「聖墳墓教会」があり、そこへの巡礼は当時の人には魅力的なことでした。

また、それに乗じて農家の相続地が無い次男以下の者たちが新たな領土を獲得して住処を得ることを目的としていました。

 

十字軍のそれぞれの思惑

エルサレム奪還のかけ声の下に集まった民衆や諸侯でしたが、この十字軍の招集には立場によってそれぞれの思惑がありました。

まずは当時のローマ教皇とビザンツ帝国のコンスタンティヌス教会は東西で教義の違いから対立していました。

そこで、ローマ教皇はこのタイミングでビザンツ帝国からの要請を受けることで恩を売り、東西教会の統一に向けての足がかりにしたいと思っていました。

また、民衆は農業技術の向上により、人口が増加した影響で土地不足が問題となり、荘園の長男以外は相続できる土地が無くなり、将来いわば流れ者になってしまう可能性を考えて、十字軍の遠征で新しく戦利品として土地を奪いとって自分のものにしようという思惑がありました。

 

十字軍の遠征の結果はどうだった?

エルサレムを取り戻すことを目標に掲げて集まった十字軍でしたが、結果はどうだったのでしょうか。

1回目は現在のフランスやドイツの諸侯たちによって編成された軍隊によって1096年から進軍が始まり、1099年1月~7月という異常に長い時間をかけてエルサレムに入城し、おぞましい虐殺と略奪の末にエルサレム王国を建国しました。

エルサレム奪還の目的を果たすことができた最初の十字軍でした。

2回目は1144年にエルサレム王国の属国エデッサ伯国がトルコ人の国家ザンギー朝の侵略によって殲滅されたことに対し、1147年にドイツ王コンラート3世、フランス王ルイ7世がシトー派修道士ベルナールの働きかけに応じ十字軍を結成しました。

この時はエルサレムはまだエルサレム王国の支配下にあったため、聖地巡礼の名目のもと進軍しましたがザンギー朝からエデッサ伯国だった領地を取り戻すための戦争には敗れ領地奪回には失敗し、聖地巡礼だけをして解散しています。

3回目は1187年にアイユーブ朝のサラーフ・アッディーン(通称サラディン)とのヒッティーンの戦いに敗れ聖地エルサレムが占拠されてしまいます。

ローマ教皇の呼びかけに応じイギリスのリチャード1世、ドイツのフリードリッヒ1世、フランスのフィリップ2世が軍隊を派遣し1189年にエルサレムを奪還すべく遠征を開始しましたが、フリードリッヒ1世が突如事故死したのを機にイギリスとフランスの国同士の対立もありドイツ、フランス軍は撤退してしまいました。

イギリスのリチャード1世が単独で聖地奪還を試みるも失敗し、1192年9月に3年間の休戦協定を結び撤退しました。

この協定でエルサレムへの巡礼はサラディンの許可をもらい可能となりましたが、エルサレムはサラディンの領土のままでした。

 

4回目からは目的にずれが出始める

3回目までは聖地奪還や巡礼を目的として結成されてきた十字軍でしたが、4回目以降は、この戦争による海路の行軍過程で貿易の拠点となっていたヴェネチア商人の意向が絡んできて、本来の目的とは外れていきます。

4回目の行軍では1202年のヴェネチア商人が中心となる軍隊編成だったためなんとエルサレムではなくヴェネチア商人の希望によりビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領します。

もともと教皇はエルサレムを攻め落とすために十字軍を招集しました。

この十字軍はヴェネチア商人が中心の軍隊でしたが、このヴェネチア商人たちがフランスの北部からやって来る軍隊の輸送を請け負っていました。

ところが、諸侯の中でこの運賃を支払えない者がでてきたことで、おかしな方向へ話が向かうのですね。

ヴェネチア商人が東方で豊かに繁栄しているコンスタンチノープルを占拠し略奪することで、その財宝を分け合い運賃をそれで支払ってほしいともちかけたのです。

それに北フランスの諸侯が乗る形で十字軍は急遽エルサレムからコンスタンチノープルへ目的地を変えました。

当時の教皇インノケンティウス3世はこの事態に激怒し、十字軍の破門を匂わせる発言をしたのですが、十字軍はこれに臆することなく1204年コンスタンチノープルを占拠し略奪し、更にその周辺の都市や近海の島々を占拠してラテン帝国を建国しました。

結局、この成功を見てインノケンティウス3世は破門を解いています。

 

5回目は平和的に2度目のエルサレム回復に成功

1228年神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリヒ2世が5回目の十字軍を招集します。

このフリードリヒ2世は十字軍の歴史の中で異彩を放つ王でした。

まず、それまでのローマ教皇の十字軍の要請をずっと断り続け破門されています。

それから、イスラムとキリスト教が共存していたシチリア王国で育ち、アラビア語を話すことができる聡明な王でした。

ローマ教皇の招集をさんざん断り続けたフリードリヒ2世でしたが1228年アイユーブ朝の内紛を見て十字軍を結成しアッコンに上陸して行動を起こします。

なんとここから先は武力を使わず、手紙による平和的解決のための交渉を粘り強く実行したのです。

この交渉により1229年無血交渉で条約を結びエルサレムを譲り受けました。

1229年2月、奇跡ともいえる無血交渉によりフリードリヒ2世とアイユーブ朝のアル=カーミルは2国間で納得のいく項目を話し合った合意文書を交換しました。

フリードリヒ2世はエルサレムとその海岸を含む一帯の地域を譲り受け、イスラム教徒はエルサレムのイスラム聖堂が集まる聖域では自由に行動できる権利を確保しました。

ここから10年程は平和的な関係が続きました。

 

6・7回目は失敗に終わる

熱心なキリスト教信者であったフランス王ルイ9世が中心となり1248年に6回目の十字軍が結成され、イスラムの拠点であるアイユーブ朝エジプトを攻撃しますが、フランス軍にチフスの蔓延があり敗北し、ルイ9世も捕虜となってしまいます。

でも、このタイミングでエジプトでバイパルスによるクーデターが起こり、マムルーク朝に代わります。

ルイ9世も身代金を払い釈放されました。

この雪辱を晴らそうとルイ9世は1270年7回目の十字軍を結成します。

ところがまたもやチフスがフランス軍の中に蔓延し、なんとルイ9世もチフスにかかり、現地で亡くなり、指導者を失った軍隊はあえなく撤退してしまいました。

こうして、7回にわたって派遣された十字軍でしたが聖地エルサレムを実際に獲得できたのは2回しかありませんでした。

 

十字軍が与えた影響は?

200年にわたって7回の遠征を行った十字軍ですが、その影響は確実に後世に引き継がれる物となりました。

まず、軍需物資の運搬に伴い、貿易がさかんに行われるようになります。

今までの農民は領主に収穫物を納めてその代わりに諸侯に身を守ってもらっていましたが、十字軍の遠征に伴う貿易で収穫物を遠くに運べば、何十倍もの利益を生む事を知りました。

その結果、莫大な富を築いた農民は領主に商業税を納める代わりに自治権を得て自由を獲得するようになりました。

 

武器の作成による技術進化もあった

十字軍の派遣にあたり、武具は非常に多くの物を必要としたため、金属の加工技術はもちろんのこと芸術性も取り込んだ武具が生み出され、強度と美しさを備えた武具が次々に生み出されました。

先日発見された剣も慎重に外側についた貝殻を外していけば美しい装飾をほどこした束の部分や鞘が見えてくると思います。

 

ローマ教皇の権威は落ち、国王たちの権威が上がる

自分の体を動かさずに指示だけするローマ教皇は十字軍の回数を重ねるごとにその権威を落としていきました。

一方で各国王の威信が確実に上がりました。

やはり、口先だけで指示する指導者よりも実際に陣頭で指揮に当たる国王に民衆の信頼が集まるのはうなずけますね。

 

今につながるキリスト教とイスラム教の確執

イスラム国家からすると十字軍はキリスト教からの侵略行為としか思えず、対立意識が植え付けられたのはこの十字軍をきっかけとしています。

十字軍が派遣されてから900年以上が経ちますが、この対立は続いています。

本来、キリスト教にもイスラム教にも侵略行為や殺人行為を奨励するような教えは一切無いのですが、当時の指導者が宗教戦争を謳って民衆をかりたてていたのです。

当時はテレビや新聞などは無く、いわゆる口コミのみで情報伝達がされていたわけで、民衆心理を掴むことに長けた指導者が宗教を利用することが民衆を動かすためには都合が良いことを知って利用していました。

 

十字軍とは?遠征の結果は?:まとめ

今回、地中海で十字軍の剣が発見されたことでにわかに十字軍に注目が集まっています。

実際に十字軍って何?とか遠征の結果はどうだったの?と興味を持たれた方も多かったかもしれませんね。

7回にわたって派遣された十字軍でしたが、実際にエルサレムを奪還できたのは2回しかありませんでした。

そういうわけで、軍事的には失敗だったと思われますが、実際のところ貿易面では大きく発展することになり、後に来るルネッサンスに大きな影響を与えました。

一方でキリスト教とイスラム教の対立がこの時に生まれ、現在も継続中なのは私個人としては残念に思います。

以上、十字軍とは?遠征の結果はどうかということについてのお話でした。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ABOUT ME
hopendoors
神戸在住。三重、東京、石川、愛知、岐阜、福井に在住経験あり。 日常の思いつき、気になったことをブログにしています。 サッカー観戦、釣り、キャンプを中心にアウトドア全般が好き。 家族からは変わり者と言われますが、外ではいい人で通ってます。 ひらめき、思いつきを大切にしています。