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ビートルズのジョン・レノンの誕生日や生い立ち どんな子どもだったの?

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こんにちは。

10月9日はビートルズのメンバーだったジョン・レノンの誕生日でしたね。

生きていれば2021年で81歳となっていました。

40歳でその生涯を閉じたジョンは皮肉にも亡くなることで、より強く人々の心に残る人物となりました。

ジョンが残した歌声は当時の熱狂を永遠に語り継がれる伝説と変えました。

そんなジョンが歌を作る時に生い立ちにまつわるエピソードをより強く織り交ぜたのはビートルズが解散した後のソロ活動の時でした。

それは華々しく見える人生と対称的な悲しみを伴ったエピソードです。

今回はそんなビートルズのジョン・レノンの誕生日・生い立ちに触れ、どんな子どもだったのかに触れていけたらと思います。

 

ビートルズのジョン・レノンの誕生日・生い立ちは?

ジョン・レノンは1940年10月9日午前6時30分にイギリスの港町リヴァプールのオックスフォード・ストリート産科医院で生まれました。

父親の名前はアルフレッド・レノン。

母親の名前はジュリア・スタンレー。

ジョンが生まれる2年前の1938年12月3日にリヴァプールのマウント・プレザント登記所で結婚していました。

 

ジョン・レノンの両親はどんな人?

父親のアルフレッド・レノンは船乗りでした。

母親のジュリアは映画館に勤務していました。

父のアルフレッドは仕事柄、長期の航海のため家に帰ることがほとんどありませんでした。

そのため母は他の男性と同棲し、ジョンを育てる余力が無かったため生まれた翌年にはメンローヴ・アヴェニューの叔父ジョージ・スミスと叔母メリー・スミス(ジョンはミミ叔母さんと呼んでいた)夫妻のもとへ引き取られました。

夫妻に子どもがいなかったためジョンはこの夫妻に大歓迎されました。

その後、1946年7月に突然父親が戻り、ジョンをブラックプールへ連れて行きます。

母ジュリアは2人の行方を探し当て、ジョンに父か母どちらかを選ばせたところジョンは母親を選んだので、再びリヴァプールのミミ叔母さんのもとに身を寄せることになりました。

母はそれでもジョンと暮らすことを選ばず、男性と同棲していました。

ジュリアはその後1958年7月、ジョンが17歳の時にミミ叔母さんの家の前で交通事故に遭い、亡くなってしまいます。

 

ジョン・レノンの育ての親・ミミ叔母さん

母親に子育ての力が無かったジョンはミミ叔母さん(メリー・スミス)を育ての親としてダブデイル小学校に入学します。

母親の愛に飢えていたジョンの心が荒れていたせいか、小学校の終わりの方にはきちんとした身なりをすることが窮屈に感じ、ブレザーを着なければいけない集会に着ずにでかけたり、シャツの第一ボタンを外しネクタイを斜めにつけるなどして、学校の規則に逆らいはじめていました。

それでも学校の成績は数学を除いてほぼ全科目とも優秀で、特に美術には類稀な才能を発揮していました。

10歳の時の廊下での展示会で数人の子にわかるようにイエス・キリストの絵を描いて20年後に周りの子たちをびっくりさせました。

というのもこの絵が髪を伸ばしたジョンが眼鏡をかけていない時の顔にそっくりだったからです。

この様なジョンにミミ叔母さんが心がけていたのは「とにかく最良のものを」ということでした。

才能の片鱗を見せましたが、悪戯もしました。

でも見つかる寸前で隠していたため小学生の時はミミ叔母さんに面倒をかけることはありませんでした。

その後11歳試験という、その後の進路の決定基準となる試験にほぼ勉強することなく合格します。

 

ジョンの高校生活はどんな感じだったの?

1952年9月にクオリーバンク高校に入学したジョンの素行は徐々に悪さを増していきます。

この学校は厳格な学校だったため、ジョンの反発心に油を注ぐ形になりました。

仲間とつるみ悪事を働くのですが、どんな時もリーダーとなるのはジョンでした。

そのため、他の生徒が悪戯をしてもジョンが代わりに鞭で打たれることがよくありました。

学校の先生を尊敬できないと早々に決めつけ、学校の成績は急激に落ちていきました。

ダブデイル小学校出身の優秀な子として入学したジョンでしたが、高校入学後の4年生には最下位のCクラスの21番目まで落ちました。

ミミ叔母さんには「このままいけば落第です。クラスの中では悪ふざけがすぎ、他の子の邪魔をしています」と学校の先生より告げられました。

目はこの頃から悪くなり、眼鏡を作っています。

眼鏡をかけることに抵抗があったジョンは眼鏡をかけずに授業を受けており、黒板の文字が見えなかったことでより意欲をそがれていたと言われています。

 

扱いにくい反逆児だったジョン

クオリーバンク高校に入学して3年が経った時にはジョンの言葉遊びに対する感覚は飛びぬけていました。

不条理な物に対する感覚、不運な犠牲者に対する風刺愚弄、ばかばかしいものに対する鋭い感受性、権威に対する攻撃性を育んでいました。

また、退学処分を受けるような態度をとることはなかったのですが、授業をサボることはしょっちゅうで、鞭の罰を受けていました。

それでもジョンの素行が改善されることはなく、とうとう鞭の体罰そのものが学校で廃止されたのです。

鞭の体罰をもってしても素行を改善することはできないという前例を作り、鞭打ちを廃止に追い込んだのです。

先生たちの間で「ジョンは扱いにくい。」というのが定着したのですが、先生たちはジョンの中には何かがあることを感じていました。

 

ジョン・レノンはどんな子どもだったの?

ジョンは左から2番目

ジョンのことをよく知る友人や先生はジョンが明らかに周囲の人とは違う物を持っていることに気がついていました。

ジョンは先生を風刺する絵を描き、授業中に机の下から隣の机の下へまわすといった具合に声をあげたりすることは無くても、生徒の集中を切らすようなことを度々実行していました。

 

少年の頃の経験が人生に与えた影響

ジョンの人生において5歳の時に父と母の間に立たされどちらを選ぶかと選択を迫られた経験は大きな傷となりました。

ミミ叔母さん夫妻との暮らしに慣れ、母ジュリアもジョンに会いに来てその2人の母親に囲まれる状態に慣れていたジョンのもとに、父フレディーが突然現れ、ブラックプールへジョンを連れて行き、そこでジョンと暮らしていこうとしていました。

ちょっとした旅行に行くと告げてジョンを連れ出したフレディーがなかなか帰らないことにしびれをきらし、ジュリアはフレディーとジョンを探し出し、どちらを選ぶかをジョンに迫ったのです。

ジョンは、はじめは父親と住むと答えました。

母ジュリアはショックを受けながらも、覚悟を決めジョンを残して帰ろうとしました。

母が出て行きドアが閉まった瞬間、これっきり母親がいなくなってしまったという悲しみと父とのこれからの生活に対する不安がいっきに押し寄せ、泣き喚きながらジュリアを追いかけました。

「ママ、ママ行かないで!」

ジュリアに追いついたジョンは母と抱き合い、結局リヴァプールのミミ叔母さんのもとへ再び帰ったのです。

後にジョンは母親を2回失ったと言います。

1度目は自分を捨てて出て行ってしまった時、2度目は交通事故で亡くなった時。

この経験がジョンの人格形成に影響しているのは間違いありません。

鋭い感性、人に対する攻撃性などは大切な存在を突然奪われた怒りや不安からきています。

 

歌にも表現される親への思い

ビートルズが解散し、ソロ活動をしたジョンでしたが、その中に「マザー」という曲があります。

この中に母親と父親を失った悲しみ、怒りが歌われています。

歌のサビの部分は「ママ、行かないで!父さん帰ってきてよ!」という叫びにも似た歌声でジョンが切々と歌い上げています。

本当は仲の良い夫婦の間で2人から愛情を受けて生きていきたかったジョンの願望はかなわなかった。

その悲しみを歌った歌です。

背景を知って聞くと、聞いているほうも胸が苦しくなるような歌です。

 

ジョン・レノンの生い立ち:まとめ

ジョン・レノンの誕生日を機にジョンの幼少期の生い立ちを見てきました。

幼少期は安定しない両親の狭間に立たされ、胸を引き裂かれる思いを経験したジョンでしたが、この様な心の傷が人の心の深いところを見る鋭い感性をジョンに与えたのかもしれませんね。

そして、後に夫婦となるオノ・ヨーコとの出会いは7歳年上のヨーコの中に母親の影も感じていたのかも知れませんね。

ビートルズの曲の中に「ジュリア」という曲があります。

この名前の通り、直接的には母のことを歌ったものですが、歌詞の中に「ocean child」という部分があり、これがオノ・ヨーコの「洋子」を英語にして表現したものではないかと推測されています。

ジョンはその後、1980年12月8日凶弾に倒れて亡くなることになるのですが、40年という歳月の中で人間のあらゆる感情を味わいつくした人生だったのではないでしょうか。

以上、ジョン・レノンの生い立ちについてでした。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ABOUT ME
hopendoors
神戸在住。三重、東京、石川、愛知、岐阜、福井に在住経験あり。 日常の思いつき、気になったことをブログにしています。 サッカー観戦、釣り、キャンプを中心にアウトドア全般が好き。 家族からは変わり者と言われますが、外ではいい人で通ってます。 ひらめき、思いつきを大切にしています。