こんばんは。
鎌倉殿の13人は第6話で頼朝が大庭景親に敗れその追っ手から隠れて身を潜める所から始まりました。
頼みの甲斐源氏の武田信義には北条は助けるが頼朝は助けないと言われてしまいます。
比企能員(ひきよしかず)は頼朝を助けるかどうか母と妻の意見が分かれ板ばさみとなって動けない状態です。

(出典:日刊スポーツ)
そして頼朝の身に追手が迫ります。
潜んでいる洞窟に中村獅童さん演じる梶原景時が入ってきて絶体絶命。

ここで、梶原景時は驚きの行動に出ます。
頼朝たちを見てみぬふりをして立ち去ったのです。
ここから頼朝は千葉の方へ舟で逃れ九死に一生を得たのです。
正に武士の情けを絵に描いたシーンで、男前伝説です。
これは有名な史実なんです。
梶原景時はこのシーンでは男前ですが、これ以後にとても重要で、なおかつ歴史の評価を二分するようなことをしていきます。
今回は中村獅童さん演じる梶原景時の男前伝説についてです。
鎌倉殿の13人の梶原景時の男前伝説

梶原景時の生まれは1140年で亡くなったのは1200年ということで60歳まで生きていてその当時としては長生きしたほうかもしれません。
後に鎌倉殿の13人のうちの1人に入ります。
頼朝にとって大きな働きをした証拠ですね。
元々梶原氏は大庭氏とともに源氏に従っていましたが、平治の乱で頼朝の父・義朝が討たれた後は平家に従っていました。
源氏につくか平家につくかは一族にとって死活問題であり、その時の情勢で従う棟梁を変えるというのは、よくあることでした。
平家の世ではありましたが、その治世に不満がうずまいていた時期です。
表面上従っていても、心から仕えているわけではなかったと考えられます。
洞窟での見逃しは史実で詳細は諸説あり~まぎれもない男前~
ドラマでは梶原景時が洞窟に入ってきて、頼朝の一行に気がつきます。
万事休す。
ここで殺されていたら歴史は変わっていましたが、梶原景時はしばらく無言でじっと頼朝たちを見つめた後、何も見なかったように立ち去ります。
この場面は、「源平盛衰記」では少し描かれ方が違っています。
梶原景時に見つかった頼朝は覚悟を決めて自害しようとしたところ、その刀を押しとどめて
「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言い、洞窟から出てその辺りにいた大庭軍にコウモリばかりで誰もいないと言って、立ち去らせようとします。
ここで大庭景親が怪しんでなおも洞窟を見に行こうとしたところを「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」
と詰め寄り、大庭景親を追いやったと書かれています。
この洞窟が番組最後に紹介されていました。
神奈川県湯河原町にあります。
住所:〒259-0313 神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋
宇治川の戦いの戦勝報告
梶原景時は1184年1月の源義仲との戦いに親子で参陣して名を挙げます。
嫡男の景季(かげすえ)はともに出陣した武将と先陣を争って武功をあげました。
勢いに乗りこの宇治川の戦いに、勝利しました。
その時の戦勝報告が詳細だったため源頼朝の目にとまったのです。
他の武将が「勝ちました」と書くだけのシンプルなものだったのに対して、景時のものだけが義仲の討ち取られた時の様子や場所、他の討ち取った武将の名前などが詳しく記載されていました。
景時が武勇だけでなく事務能力、実務能力が高かったことを示すエピソードですね。
一ノ谷での梶原の二度駆け
1184年2月に平家を不意討ちにして敗った一ノ谷の戦いは源義経の活躍がクローズアップされていますが梶原景時も「梶原の二度駆け」と呼ばれる一騎当千の大暴れをし、後世に語り継がれています。
最初は梶原景時が義経の侍大将として仕えていたのですが、そりが合わず範頼の侍大将だった土肥実平と変わってもらい範頼の侍大将として平知盛と戦います。
この時、景時の子どもの景高が武功ほしさにたった一騎で敵陣へ攻め込みました。
それに気付いた景時はわが子の一大事と、途中まで引き上げていたところをきびすを返し再び平家の中へ単騎で突っ込み、縦横無尽に駆け回り相手を斬りまくり血路を開きます。
そして景高のところまでたどり着き、景高を馬に乗せて引き上げるという武者ぶりを見せました。
これを梶原の二度駆けと呼び、後世に語り継がれています。
梶原景時は武勇だけではなかった
1190年頼朝が京都へ上洛する時に景時は同行しています。
途中の遠江国(静岡県西部)で遊女を集めての宴で頼朝と和歌を詠みあいました。
梶原氏は公卿の徳大寺家に和歌を習っていたため和歌もよく知っていました。
坂東武者としては珍しい教養を身につけた武将でした。
源義経との確執が歴史評価を二分する

歴史書はその時代によって都合よく、歴史上の人物の評価を変えますが、梶原景時に関しても、評価が時代によって変わります。
源義経との確執によって、景時からの頼朝への報告がきっかけとなって義経を死へ追いやることになります。
それを受け、江戸時代までは判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉通り、義経を仲間に裏切られた哀れな武将とし、景時を悪い武将として歌舞伎や演劇で勧善懲悪として演じられます。
これで梶原景時の悪玉イメージが作り上げられたのです。
壇ノ浦の戦いで先陣を申し出るも
1185年の壇ノ浦の合戦は平家を滅亡させた戦いとして源義経を英雄として描いていますが、ここには先陣を願い出て却下された景時の言葉が残されています。
「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない」
と義経のことを愚弄して義経の部下と景時父子が斬りあう直前までいきました。
平家は滅亡したのですが、義経率いる軍では兵どうしの仲はよくなかったですね。
義経が自分の武功のことばかり考え、他の武将に手柄を与えなかったとの評価が明治以降は定着しています。
個人的には義経が好きですが、景時から見れば、坂東武者への気遣いの無い、独りよがりな武将ととられてもしかたがないかもしれません。
鎌倉殿の13人の1人にカウントされている
梶原景時が今ご紹介したエピソードで武勇に加えて、実務能力や和歌についても見識があることがわかります。
これだけの能力を発揮し、2代目将軍・頼家の信頼を受け13人のうちの1人に数えられています。
合議制の13人が結成されたのは頼朝の死後1199年のことでした。
つまり、頼朝が13人に景時を選んだのではありません。
梶原景時はこうして2代目将軍・源頼家にも重用され、そこで13人に加えられるのですが、出るくいは打たれます。
他の御家人たちのねたみからくる訴状により、結局追放されてしまうのです。
最期は一度鎌倉幕府から身を引き、相模国一ノ宮に行ってから京へ上り宮仕えをするつもりだったそうですが、駿河国清見関で出くわした地域の豪族と戦となり、息子たちが戦死に追い込まれ1200年に自害をしています。
中村獅童が演じる梶原景時の男前伝説:まとめ

中村獅童さんが演じる梶原景時ですが、名前は有名ですが何をやった人かはぼんやりとしていました。
歴史上、悪役として描かれることが江戸時代までは定番でしたが明治時代になって、思慮深く、憎まれ役を自らかってでた義理堅い武将としてイメージが変わりました。
中村獅童さんが演じるというところから、男前だということは察しがついていました。
どのように三谷監督が梶原景時を描き、獅童さんが演じていってくれるのか楽しみですね。
余談ですが、西田敏行さんが演じる後白河法皇が登場して笑わすというのが毎回の定番になっています。
第6話ではとうとう2回も登場し、笑わせてくれました。
また、宗時の死を時政と義時が察して涙するシーンは深い悲しみが描かれるとともに時政が義時に宗時の志を継ぐことを説きました。
こういったシリアスなシーンと笑いを織り交ぜながら物語が進んでいて三谷ワールド全開です。
今回は中村獅童さんが演じる梶原景時の男前伝説についてでした。