こんばんは。
毎週好評放映中の「鎌倉殿の13人」は第7話を放映しました。
依然として自らの命も危険にさらされている源頼朝たち。
その配下となっている北条時政、義時の親子は宗時の死を悼む暇も無く房総半島の大勢力、上総介広常を説得にいきます。
今回の最大の見せ場は上総介広常が2万の大軍勢を率いて頼朝のもとへ来た時に「遅い!」と叱り付けるところです。
このシーン、出来すぎなくらい頼朝がかっこよかったのですが、果たして史実か創作かどちらなんでしょうか?
というわけで、上総介広常を叱り付ける源頼朝は実話なのかどうか調べてみました。
上総介広常を叱り付ける源頼朝は実話?

(出典:日刊スポーツHP)
石橋山の戦に敗れた頼朝は命からがら房総半島の南端に舟で落ち延び、仲間と合流しました。
そこから北上し鎌倉を目指すわけですが、その途上には佐藤浩市さんが演じる大勢力の上総介広常が控えていました。

頼朝軍は石橋山の戦いの開始時点で300人。
それから戦でほとんどの兵力を失い、わずかな手勢。
一方、広常の軍勢は2万人。
まともに戦えば勝ち目はありません。
そんな中、和田義盛とともに義時は数日かかってようやく広常を説得し、ついに2万人の大軍勢を頼朝のもとに連れてきました。
その時の頼朝の反応は、喜びをいっさい表さず、逆に怒りを露にして叱り付けます。

「遅い!わしは昼前からお主をここで待っておった。
無礼にも程がある。
帰れ!遅参するものなど戦場(いくさば)では役に立たぬ。
お前の連れてきた軍勢を見た。
敵にまわればこれほど恐ろしいことは無い。
しかし、だからどうした。
礼儀を知らぬ者とは天下草創の志を同じくはできん。
じらして己の値打ちを吊り上げようとしたか。
笑わせるな。
さっさと帰れ!
一戦を所望とあらば受けて立とう」
と大見得をきります。
本当に広常が敵にまわったらひとたまりも無いと周りの配下武将はひやひやです。
でも、これがかえって広常を心服させ、見事に2万の大軍勢を配下にしたのです。
大見得は吾妻鏡(あづまかがみ)に記述あり

(出典:デジタル版吾妻鏡)
吾妻鏡の中に1180年(治承4年)9月19日に現代の言葉にすると下のような内容の文章があります。
「ついに上総の介広常が一族二万騎を連れて隅田川の川辺にやってきた.それを見た頼朝公は上総の介広常が遅れてきたことに大変怒った.上総の介広常は頼朝公の人物が大したことがなければその首を取って平家方の恩賞を貰おうと考えていたから,頼朝に大声で怒鳴られビックリして,その人物の大きさ,そして武士の棟梁である頼朝に対して畏敬(いけい=おそれ敬う)の念をもって,思わず平伏したという.これによって頼朝軍は2万をこえる大軍にふくれあがった」
細かい言い回しはともかくとして頼朝が大軍勢を目の前にして大見得を切ったのは史実のようです。
広常を説得に行ったのは和田義盛だけだった
一方、その前の段階で広常を説得に義時と和田義盛が行ったシーンですが、これは創作で実際に行ったのは和田義盛だけでした。
ここは兄・宗時から受け継いだ志である「坂東武者の世をつくるため、そのための出陣であること、そのために頼朝をかつぐこと」
これを真っ直ぐに伝えて広常を説得するという大立ち回りの役目を主役の義時の見せ場として脚色して作っています。
そして広常は義時に好意を寄せています。
上総介広常はどんな人物?

それでは上総介広常はどんな人物だたのでしょうか?
もとは房総平氏の祖先から始まった平家の一門です。
父・常澄の八男として生まれました。
先に安達盛長に説得されて頼朝につくことを決意した千葉常胤(ちばつねたね)は親戚にあたります。

祖先にあたる忠常の妻は平将門の娘でした。
つまりバリバリの平家でした。
でも平治の乱では頼朝の父・源義朝につき、源氏軍として戦います。
義朝が平清盛に敗れた後は平家に仕えていましたが、頼朝挙兵の際に源氏からも平氏からも誘われ、ドラマ中では両方を天秤にかけている様子が描かれていますが、近年の研究では元々源氏よりだったという説が有力です。
頼朝の挙兵を一つのきっかけとして自らの家督争いにも決着をつけ平家との決別をはかりました。
というのも上総介の地位は平家からは他の平家の有力な御家人に与えられており、広常は平家には上総介には任命されていなかったからです。
兵力は資料によって諸説あり
ドラマの中で2万の軍勢として描かれていますが、これは吾妻鏡を脚本としています。
ところが歴史資料は吾妻鏡に限らず、延慶本平家物語では1万騎、源平闘諍録では1千騎と書かれていて不明なところです。
最後は梶原景時に暗殺される
頼朝に従っていた広常でしたが、吾妻鏡によると最大兵力を持っていたことからくる横暴な振る舞いがあったことが記されています。
頼朝など主君に対しては下馬をしてあいさつすることが慣わしだったにも関わらず「今まで3代に渡って仕えてきたが、そんなことをしたことはない」と下馬をしませんでした。
また、頼朝にもらった水干のことで他の武将と殴り合いの喧嘩になりそうになったりしたという記述があります。
そしていよいよその横暴ぶりが目にあまって来た時に頼朝の命によって、謀反の可能性ありとして梶原景時に暗殺されてしまいます。
でも、後日、広常の遺品となった鎧の中から頼朝の戦勝祈願の手紙が見つかり謀反の可能性が無かったことが明らかになり、千葉家に送られていた広常の嫡男たちは釈放されました。
上総介広常を叱った頼朝は本当?:まとめ

第7回まできて窮地に立たされた頼朝は房総半島の南端に落ちのび、そこから再起をはかるため2万騎の大軍勢を持つ上総介広常を説得し、頼朝のもとにはせ参じることを広常は決意しました。
ここまではよかったのですが、何と2万騎を連れてきた広常を「遅い!」と叱りつけたのは吾妻鏡に記載された真実であったことがわかりました。
まあ、吾妻鏡の信憑性が高いとは言えないのですが、吾妻鏡を脚本として描かれているのが鎌倉殿の13人なので、記述ありとだけ書いておきます。
今回、初めて大泉さんの演じる頼朝がかっこいいと思いました。
どちらかと言えば、広常のような大軍勢が味方になってくれたら、手をあげて喜ぶであろうところで一喝してイニシアチブをとってしまう度量の大きさを見せました。
いよいよ、鎌倉に向けて旅たつ準備ができました。
次回を楽しみにしたいです。
今回は上総介広常を頼朝が叱り付けたのは本当というお話でした。